970410,13:05 晴天
お昼を食べ終わり一人でまったりする3コンBルームより

考える、ということは病気だと思う
12号館の横の散り行く桜を目の前にして9号の屋上でおにぎりを食べた
友達とくだらないことやって過ごした時間というものが
結構大切なものなんだな、と思ったりするわけだ。一人で飯食ってるとな
余りに色々なことがありながらやることが何もない
ぶらぶらとコンピュータールームにやってきて過去のメールを読む
こういった残されたデーターによる情報的なつながり、というものを通して
コミニュケーションってなんだろう、とか変なことを考えてしまって
また頭がぐろぐろしてくるのであった
おまえ、考えるのやめとけよ・・・


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題目:ネットワークによる精神進化とこれからの情報社会

他人が、そしてなにより自分が誰かに考えをひけらかすことに
嫌悪を抱いているわたしたちへ


序章 まず始めに

生命体が自然界の中で種の保存のために生殖行動を起こし
個を保存しようとするように
精神体は社会の中で情報の保存のために布教行動を起こし
我を保存しようとする、と仮定する
ここにおける布教とは宗教的な意味合いでは無く
我をこの「情報社会」に残そうとする精神活動である

今回はこの仮定を発展させることから何らかの答えを引き出すことにしたい
もしこの仮定が受け入れられなくても、もう暫く読み進めて欲しい


第一章 何故布教するのか

わたしを含む多くの我々は、自分の持つ美意識、理念、価値観といった情報を
他人に対して提示したがるものである
それにより他人と自分との関係を確立し、分類しようとしているのだ
ある時は同じ情報を持つ者同士、またあるときは違う情報を持つ者同士
お互いを認めあったり、補訂しあったり、否定しあったりする

それは何故だろうか

自然界において個という存在は必ず消えてしまうもので
それは残念ながら避けることのできない、ある種の運命とも言える
そのため私達を含む全ての生命体は生殖活動という行為を通じて
個の存在を遺伝という形で種の中に保存しようとする
その際にその個にとって足りない遺伝子を持ったもの同士で補いあったり
同様の遺伝子を持った者同士で強めあったりして
自然界において生存能力の強い新たな個を生み出そうとするのだ

こう考えられないだろうか

存在はそれを保存したり強化したりしようとする摂理がある
我々は「生命としての個」の他に「精神としての我」という存在を持ち
そして生命体が遺伝子という媒体を得たのと同様に
いま精神体は啓蒙子という媒体を得たのだ、と

我々はいつも「わたしとは何?」という疑問を抱えている
わたしである我という存在を固定しておかないと消えてしまうような
そんな強迫観念的不安に常に駆られてている
他の情報によって淘汰されることを恐れているのだ
そして「より納得できる理由」を探している
それを取り入れ、作ることで新たな我ができあがる
わたしたちが啓蒙子を保存しようとしているのだとすれば
多くの布教行動の意味が見えてくる
つまりわたしたちの布教行動はお互いの精神に触れることで
より支配力の強い新たな我を生み出そうとする行為なのだ


第二章 布教行為の進化と存在保持方法の変化

布教行為は古来宗教や哲学、文学というものから始まり
啓蒙子は口伝や書物、絵画などの表現媒体で伝わっていった
だが口伝ではお互い逢うことのできる人間同士の間でしか布教は行われない
また書物、絵画と云った自己表現では送り手と受けての一方的な関係であり
とくに活発な啓蒙子のやりとりは行われなかった
その後移動手段や伝達手段が発達してもその関係は何ら変わることはなかったが
近代になってTVという常に啓蒙子を送り続けるメディアが発達する
そのためわたしたちの周りには大量の啓蒙子があふれ始めたのだが
結局それらの多くはやはり一方的に与えられるだけで
わたしたしはあくまで選択することしかできなかった
だがTVによる膨大な情報によって常に淘汰の恐怖にさらされ続けたため
新世代の土壌である我という存在は急速に発達し始めた

そしていま双方向で素早く情報をやりとりできる
コンピューターネットワークという手段が急速に発達した
これらの御陰でわたしたちは与えられた啓蒙子を選ぶだけではなく
自分自身の持つ情報を簡単に、しかも大量に大勢に布教できるようになったのだ

そうなることで何が起こったのか
もともと生活そのものが種の保存に密着だった世代とは違い
情報の保存という生活に密着ではない存在の保存方法を得てしまったこの世代は
生活というものに対して今までの世代ほど執着しなくなってしまった
わたしたちにとっては情報を保持し強化し新たに取り入れ布教しようとすることが
就職し結婚し家庭を養ったりすることと同じくらいか
もしくはそれ以上に大切なことになっているのだ


第三章 世代の断絶

わたしたちはその世代変化のちょうど真ん中に位置する変化の世代だ
私達より前の世代ではそういった精神世界の存在を感じることはできない
なぜならばそういった存在の保存方法を実感として感じられないからだ
そして私達より後の世代では情報を保存しようとする行為は
あまりに当たり前すぎてそれを特殊な物として感じることができない

インターネットホームページという物を見たことはあるだろうか
日記を載せていたり、自分の気に入った物を紹介していたりする物が
大量に存在して、いや殆どではなかっただろうか?
そしていま知識人と呼ばれる旧世代の人たちは口を揃えて云う
「彼らには主張も主体性もないし、個という物が存在していない」と
だがこれは違うのだ
旧世代の人たちにとって主張や主体性というのは「生活」に支配された物であった
だが今の世代にとって主張や主体性というのは
「生活」に密着した「個」だけではなく「情報」に密着した「我」なのである
なにもホームページに限ったことではない
双方向で情報を不特定多数に布教できるメディアなら
そういった存在が増え始めているのである

これは大きな変化である、そして現実に起こり始めている
そしてその変化に気付いているのはそういった状態に嫌悪感を感じながら
受け入れているわたしたち変化世代だけなのだ


最終章 これからの情報社会とは

あげられた仮定から未来に対してある程度の予想を立てることができる

まずは価値観の多様化、分化、そして共生化である
新しい世代にとって自分の価値観という物はすでに「我」であり
生きることの意味として浸食されざる物になっていく
よって多くの価値観が存在しながらお互いでなわばりを作りあい
たやすく論争を起こすことはなくなって行くだろう
「我」にとって否定されることは死ぬことと同義だからだ
そして結果情報社会には今までとは異なった
全く新しい倫理観というものが芽生えて行くだろう
同様に就職、結婚、家庭といった今まで絶対的だった物がそうでなくなり
ますます相対化していくにちがいない


断章  嫌悪感を持つわたしたちへ

わたしたち変化世代は古い価値観を捨てつつも縛られているという
矛盾した状態におかれている
そのためこう云った主張行為に対して古い価値観が嫌悪感を抱く
それでいながら新しい存在保持の方法を得てしまったわたしたちは
それを否定して生きていくことはもはやできなくなってきている
そういった矛盾が大きなストレスを与えているのだ
これからは布教することもされることも当たり前になって行くだろうし
お互いが価値観を提示しあい情報を得ることに生きる意味を求めて行くだろう
それが存在としての進化であるのか奇形であるのかは判らない
結果はこの過渡期がどう落ち着いていくかにかかっている
それを見届けることができる世代なのだと思うことで
あなたの嫌悪感を少しは前向きに感じることはできないだろうか



注約
我々と云ったときそれはTV世代以降の「我」を持った世代を
わたしたちは変化世代を指しています

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って考えるのはやっぱり病気のようだ
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